那須田康之
自由律俳句研究
自由律俳句に思うこと
正岡子規に始まる近代俳句は定型俳句と異なる改革が行われてきた。荻原井泉水の「層雲」、中塚一碧楼の「海紅」により自由律俳句が生まれた。市川一男、内田南草により「口語俳句研究会」が創立された。吉岡禅寺洞の「天の川」、荻原蘿月の「感動律」も誕生した。これらすべてが自由律俳句の源泉である。今回はその内、荻原井泉水の著書を通じて自由律俳句を研鑽してみる。
井泉水の著書からの自由律俳句
昇る日を待つ間に 大正二年発表
俳句改革を目指した新傾向俳句だが、これは人生の喜びや悲しみを味わう深みがない。自然の姿に肉迫していないから自然の命を捉えていない。
新俳句提唱 大正十一年発表
俳句は自然の生命を感じる感激から出発しなければならない。俳句は印象の詩であり、自由な詩である。五七五の型に言葉を当てはめて作るのではなく自由な表現でなければならない。定型を破壊するこ とから真の俳句は生まれる。
俳句の道 昭和七年発表
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「作ることと味わうこと」
俳句を作るにはどうすればいいかと問う前に俳句をよく味わうがいい。俳句を作る方法を教える本に、五七五の形にまとめて季題をつければ俳句になるとあるが、そんなことで本当の俳句ができるわけがない。
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「内観の世界」
俳句は他の文学と違って内観の世界、つまり各自の心の内を表すものである。外界にあるものは実際にあるものだが、これをそのまま現そうとするのなら写真が理想的である。心の内とは、例えば月を見れば美しいと感じ、静かな気分になり、淋しい気分にもなる。花ならば美しさや匂いを感じるし、心引かれる。これが真実であり俳句の創作となる。
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「主観の力」
あら海や佐渡によこたふ天の川 芭蕉
荒海と佐渡と天の川があって地理的な風景や天文学的な描写ではない。空を見ると淋しくも鮮やかに天の川がかっかている。外観のみでなく作者の内観の世界がある。この様に主観の強く出ている句こそ、感動の深い句であり心に強く響く。
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「真実を観る」
蜻蛉やとりつきかねし草の上 芭蕉
その姿や動作が出ている句だが、それよりも、ひらひらと舞い、物にすがって生きてゆく蜻蛉の生命が現わされている。単なる写生ではない。蜻蛉の生命を自分の内観の世界に移入してこそ、本当の自然に触れた感じが出る。
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「季無き句の試み」
新傾向俳句時代は季題を離れることはしなかった。どこまでも趣味を主眼とし、約束事を重んじたからである。そこから俳句は季題を離れて成立するのではないかの疑問が湧いた。俳句は趣味のものではない。約束の文学ではない。生命に触れる表現の詩だと。
新俳句入門 昭和二十四年発表
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「自然のこころ」
俳句は言葉を巧く使おうとせず素直で平易なのがいい。俳句は十七字そこそこの短い表現であるから、無駄なことを言っては肝心なことを落としてしまう。
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「生きる、生活する」
自然を見る、自然に親しむ気持ちは自然の中に生きるということである。言い換えると自然の中に生かされているに違いない。
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「長さ」
俳句の長さは「一息で云いきれる長さ」と思って欲しい。俳句は十七字でなくてはならないのではなく自然のリズムに乗って十五字でも、十七字でも、十八字でもよろしい。
麦は刈るべし最上の川のおしゆくひかり
秋兎死
七七七の三段で全体二十一音だがリズムが整っていて長く感じない。
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「句切れ」
一息に棒読みするのではなく息はつがないが一休みして読むのである。この休みを「句切」と称する。句切は文法的に切れ目を出すだけでなく、気持ちに深みを持たせるものである。もし句切が無ければ棒を呑んだようになり俳句のリズムが出ない。私は俳句を「一つの句切を持ちたる一行の詩」と定義する。
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「自由な気持で」
自分で感覚したこと、感受したことを自由に取り上げて俳句にすればいい。それを俳句に生かそうとしたのが芭蕉である。「自由な気持で」ということが俳句の根本精神だと信ずる。
新短詩提唱 昭和三十四年発表
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「詩の中の俳句」
詩という世界の中に俳句がある。従来の俳句から非詩的なものを排除する必要がある。季題だが、あってもよろしく、無くてもよろしい。季題という観念に囚われないで、一つの自然感として季節の感覚を取り入れたものは差支えない。その意味において自由なのである。詩のリズムで表現されているならば、十七音でも十七音でなくてもよろしい。リズムを持たず詩心も含まない感想のようなものは一行の散文である。
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「俳句の定義」
自由律俳句は俳句ではないと云う人がいるから、あえて定義をしたいと思う。私は「俳句は一つの段落をもっている一行詩」だとしている。俳句の中には必ず、この段落がある。これは古来から重視されてきたもので、昔はこれを「句切」と称し、句切を表す言葉を切字と云っていた。しかし切字はリズム意識の点では異なるので、私は段落と云っている。
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「俳句の特殊性」
俳句には刹那的、気分的、象徴的、暗示的、四つの要素がある。刹那的だが、芭蕉は「その光消えざるうちに言い留めるべし」と言っている。刹那的印象を俳句の種とすべきことは云うまで もない。気分的だが、句に余韻の生命を持たせる動きである。象徴的とは、一をもって十を表わさんとするもので、十書いてしまっては説明的で散文的で詩の味わいに乏しい。暗示的とは、作る者と味わう者との関係であって、句の言わんとするところを想像させるものである。
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「自然・自己・自由」
「自然」 自然はあるがままの姿が美しいが、人間は色付けをしたり季題として取材する。自然の詩は雪や月のように自然現象を対象とする意味ではなく生命の詩であると言える。
「自己」 我々は自然を愛する。それは自分の生命を愛するからである。自然と自己は一つのものである。俳句の険しい道を開拓するには自然の道であり、自己の道である。自己の内に自然の生命を感じ自然に従った生命の喜びを享受しようとする道である。主観の強く出ている句こそ感動の深い句である。
「自由」 自由という言葉はある拘束から解放されることを意味する。自由というよりも自主、自在と言った方が分かりやすいかも知れない。狭い意味では季題と五七五から解放された意味である。
私の解釈
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「昇る日を待つ間に」
子規、虚子と続いた客観写生に飽き足らず碧梧洞の新傾向俳句に携わったが満足できないので「層雲」創刊により「新しい俳句」を提唱した。
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「新俳句提唱」
五七五の型に囚われず季題に頼らない俳句を明確に示している。自由な表現の俳句である。
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「俳句の道」
内観の世界とは自分の心の内を現すことであり、主観の強く出た句が読み手の心に響く。
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「新俳句入門」
自由律俳句を「一息で云い切れる長さ」「一つの段落を持ちたる一行詩」と定義している。自由律はあくまで俳句であるから十七字を中心とし、その句に合ったリズムであるべきだと思う。俳句の型は私としては、「一句一章」と「二句一章」があると思っている。「一物仕立て」と「二物仕立て」と云ってもいい。この言葉は定型俳句で使っているが自由律で使っても差し支えないと思う。一句一章は一つの物事を俳句にしたもので、例えば
咳をしても一人 尾崎放哉
うしろすがたのしぐれていくか 種田山頭火
くろがねの秋の風鈴鳴りのけり 飯田蛇笏
流れゆく大根の葉の早さかな 高浜虚子
いずれも句の途中に「切れ」があってリズムが整い、一気に読み下す良さがある。切れがなければ散文になってしまう。芭蕉は「発句はただ黄金を打ちのべるように作るべし」と述べているが、一句一章には一気に読み下す良さがある。私は「段落」と言わず「切れ」と云いたい。二句一章は二つの物事を俳句にしたものである。
例えば
夏草や兵どもがゆめの跡 松尾芭蕉
仏を信ず麦の穂の青き真実 荻原井泉水
上句と下句が響き合って句意を深めている。
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「新短詩提唱」
俳句の特殊性は刹那的、気分的、象徴的、暗示的と述べている。
刹那的とは物事を瞬時に捉え印象の強いことを俳句にすることだと思う。
気分的とは、芭蕉が「謂(い)ひ応(おほ)せて何か有る」としているが、句で全てを言うのではなく五、六分に止めおくべきとも言っている。俳句に余情、余韻を持た せることを気分と言っているのだろう。象徴的とは、或る物を別のものを代わりに示すことだろうか。理解が難しい。
暗示的とは、物事を明確に示さず、手がかりを与えて知らせることで、明喩、暗喩がこれに当たる。
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「自然・自己・自由」
「自然」とは、四季折々に美しい日本の風景だからこそ生まれた俳句である。自然と共に生きる、生かされている気持ちがな何より大切だと思いたい。
「自己」とは、自分が何を感じたか、何を思ったか主観を重んじた俳句であることから定型俳句とは異なる。見たままや思い付きで俳句を作るのではなく、自己が感動したことを基に作るものと理解したい。
「自由」とは、五七五と季語から解放され、発想の自由、表現の自由があることと思う。